中日文化交流の絆を受け継ぐ内山書店の「魯迅の応接間」

japanese.shanghai.gov.cn| 2024-10-16

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(撮影・施晨露/上観新聞)

10月11日午後、上海市四川北路山陰路の交差点に位置する「1927・魯迅と内山記念書局」の二階で、在日中国人作家の華純が新刊にサインをしていると、「張菁菁」という親しみを込めた呼びかけとともに笑い声が沸き起こり、華純と旧友たちは手を取り合いました。「張菁菁」は華純の元の名前で、彼女の中学時代の同級生たちは今でもこの名前を覚えています。当時、華純と同級生たちは、書店から交差点をひとつ離れたところにある復興中学で学んでいました。

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再会した華純と中学時代の同級生たち。(撮影・施晨露/上観新聞)

「魯迅の作品は、私が未成年だったときに文学への扉を開いてくれましたが、本当に読めるようになったのは、大人になってからです。魯迅は、中国社会の母体に触れる華僑の作家が振り返らなければならないそびえ立つ存在なのです」。華純は長年にわたる異文化交流の心得を分かち合うため、上海外国語大学教授で上海翻訳家協会の元会長の譚晶華、マレーシア中国人作家の戴小華、巴金故居の常務副館長の周立民などとサロン形式の対話を行いました。

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1927・魯迅と内山記念書局にて。華純、譚晶華、戴小華、周立民(撮影・施晨露/上観新聞)

2011年と2019年、華純は数人の学者とともに、日本で日本華文文学筆会(ペンクラブ)と日本華文女性作家協会を設立しました。彼女は日本の華文文学を振り返って、1990年代の日本における華文文学には、『上海人在东京(東京にいる上海人)』、『东京没有爱情(東京に恋愛はない)』、『东京的绿太阳(東京の緑の太陽)』など、個人的な留学生活や異国での文化的アイデンティティを追い求める作品が数多く登場しました。しかし、21世紀の日本の華文文学の多くはもはや留学生の生活体験に焦点を当てておらず、作家たちの運命共同体への意識が反映されるようになってきました。また、中国人作家がバイリンガルで執筆するようになり、東京にアマチュアの俳句漢俳創作協会もでき、日本語で小説を書き、日本最高の文学賞である芥川賞を受賞する中国人作家が現れるなど、前例のないことが起きていると語りました。

内山書店は1917年に内山完造夫婦によって開かれた書店です。開店後すぐに内山完造は書店の一角に中日交流のための「文化サロン」を設けました。芥川竜之介、谷崎潤一郎、佐藤春夫など、上海を訪れた多くの著名な日本の作家が内山書店を訪れました。1927年秋、魯迅は妻の許広平とともに内山書店の近くに居を構え、書店の常連客となりました。

譚晶華は「内山書店が当時の上海でめざましい売り上げを上げたのは、上海にいる日本人だけでなく、中国人の読者も多かったからでしょう」と述べました。

周立民は内山書店は魯迅の応接間のようなもので、魯迅の家を訪れたことのない多くの若い作家が内山書店で魯迅に会いました。ここからも魯迅の内山完造への信頼がうかがえます。こうして、内山書店は中国近代文学の記憶を保存する重要な場所となったのだと述べました。

1927・魯迅と内山記念書局が、内山書店跡に再現した、魯迅が友人に会って雑談したテーブルと椅子。(撮影・施晨露/上観新聞)

2022年11月26日、上海新華メディアの新しいタイプのリアル書店として、内山書店の旧跡を丹念に修復・拡張した「1927・魯迅と内山紀念書局」が正式にオープンし、800㎡を超える都市型文化複合施設となり、上海報業グループグローバルコミュニケーションシステムの重要な一部となりました。同書店の王文彦店長は、開店以来、「50年50人」中日国交正常化50周年シリーズ取材活動座談会、「在上海日本岡山県人懇親会」、日本のJTB旅行社と提携した「上海歴史シティーウォーク」イベントや歴史講座など、多くの対外文化交流活動を開催・実施してきたことを紹介しました。かつて日本に移り住んだ田漢の姪の田偉が同店で上海の読者に「『義勇軍行進曲』の海外伝播と田漢氏の2、3の話」という講座を行いました。また、魯迅が内山完造に宛てて日本語で書いた手紙も同店で開催された「魯迅重要文献展」にて初公開されました。

戴小華は「1927・魯迅と内山記念書局」を初めて訪れ、「文化と歴史が感じられる書店です」と述べました。

魯迅は『中国小説史略』の中で、ある文化において、人は常に外の文化を考え、その利害を考え、それを愛し、それに照らし、それを軽蔑し、またそこから光を得なければならないと述べています。華純は「今日、私たちは魯迅をグローバルな文脈におき、異文化の視点をもって、この20世紀に中国で生まれた文化的巨人を再認識することができます」と述べました。そして、全世界に約6000万人の華僑と華人が海外の地に根を下ろしており、彼らは多元的な文化的特徴を備えており、それ自体、異文化が溶け合って発展した結果だと考えていると付け加えました。文匯出版社から出版されたエッセイ集『灼灼其華』の書名を決める際、「縁側」という選択肢もあったが、これは後に詩集の書名になりました。日本語で「縁側」とは、居間と庭の間の廊下を指します。華純によれば、文化的環境と地理的位置のどちらから見ても、「縁側」は重要な視点であり、例えば「縁側」という境を用いることで、外から内へ、また内から外へと転回する作者の哲学的なプロセスを解釈することができるといいます。

文匯出版社の周伯軍社長は「20年前、私はある日本のメディアの代表団を率いて内山書店の跡地を見学しましたが、彼らは皆、上海にこのような場所があることに驚き、大いに興味を持ちました」と述べました。彼の目には、きょうのイベントの開催地もある意味で「縁側」と映っています。「ここで中日文化・文学交流の縁が続き、国際的な文化交流と伝播を深く観察・理解するための廊下となっています」。

情報源:上観新聞(Shanghai Observer)