解散から16年、REDЯUMが上海初公演で東京ロックの魂を再燃

japanese.shanghai.gov.cn| 2025-06-26

6月22日夜、上海長寧区の育音堂音楽公園の細長い会場には、ステージ最前列の柵から出口まで観客で埋め尽くされ、若いファンたちが身を寄せ合い、いつからREDЯUMの曲を聴き始めたのかを興奮しながら語り合っていました。

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入場待ちの観客たち(写真提供・上観新聞)

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ライブ会場の様子(写真提供・上観新聞)

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ライブ会場の様子(写真提供・上観新聞)

ライブ開始直後、「久しぶり」とボーカルYUMIの声が静寂を切り裂きました。この日本語での簡単な挨拶に、最前列で黒縁メガネをかけた男性が一瞬で目を潤ませました。彼のバックパックには1999年発売の初版アルバム『REDЯUM』が入っていました。

「彼らの音楽は、砕けた鏡に映し出される自分そのものだ」。北京から駆けつけた陳冉は、中国大陸初公演のチケット半券をぎゅっと握りしめながら、舞台上の飾り気ないYUMIの姿を見つめました。25年前のアルバム当時と変わらぬその歌声に、彼女の目には自然と涙が滲んできました。

日本でも、REDЯUMは異色の存在であり、『シャイニング』の「Murder」を鏡文字にしたバンド名を持ち、世紀末特有の陰鬱な詩情を帯びています。結成当初は「日本のPortishead」を目指し、独自のサウンドを確立しました。YUMI(ボーカル)、SOTO(ベース)、KAZI(リーダー・ドラム)、TSUYOSHI(ギター)で結成されたREDЯUMは、個性溢れ、芸術的な表現力に富んだユニークなバンドです。

2009年、ボーカルのYUMIが「音楽だけではなく1人の女性として人生を歩みたい」という理由で脱退を決め、その結果バンドは解散しました。しかしその後の16年間、平成世代の若者の迷いや苦悩を水銀のごとく迸らせた彼らの楽曲は今なお語り継がれ、彼らのCDは中古市場で今も引っ張りだこの名盤となっています。

バンド解散から16年後の2025年4月、REDЯUMは東京・下北沢のFlowers Loftでの復活ライブを発表しました。圧巻のパフォーマンスで、歳月などが彼らの音楽的表現力を少しも衰えさせていないことを証明し、90年代末の日本ロックが放った、まさに最後の輝きとも言える美しい残照を、観客たちは目の当たりにしました。先鋭的なミュージシャンの土屋昌巳はSNSで、「90年代の終わり、世紀末の不穏さと新世紀への期待が入り混じる混沌とした空気。そして2000年代初頭、想像していたような未来は、きっと来ないのだということに気づいた、正にあの時代を駆け抜けたREDЯUMが放つ空気。」と感慨深く綴りました。

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上海公演を実現させた音楽プロデューサーRcardoさん(左)。(写真提供・上観新聞)

このツイートはすぐに上海の音楽プロデューサーRcardoの目に留まりました。この日本在住経験のある上海出身のプロデューサーは、何年も前にREDЯUMのレコードを聴いた瞬間、まさに天啓を受けたかのような衝撃を覚え、以来ずっと至高の宝物として大切にしていました。彼は日本の業界の知人を介してREDЯUMと連絡を取り、上海で公演してほしいと伝えました。これを機に、ついにバンドの上海公演が実現することになりました。

公演が終わると、若い観客たちは潮が引くようにあっという間にホールを後にし、育音堂の外まで延々と続くサイン待ちの列を作りました。ステージ前に腰かけたYUMIは、一人一人のファンに中国語で「謝謝(シェシェ)」と語りかけ、SOTOはジャケットに笑顔マークを描き込みました。これは活動期間のツアーから続く彼らの伝統です。

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公演終了後のサイン会の様子(写真提供・上観新聞)

「上海は昔から文化の交差点だ。育音堂は中国の新世代バンドやミュージシャンに機会を提供するだけでなく、海外の優れた音楽を中国のファンにもっと身近に感じてもらうため、常に敷居を低くする努力を続けてきた。たとえどんなにマイナーで遠く離れたバンドでも、作品さえ良ければ、ここには必ず彼らを待ち受ける聴衆がいる」と、20年にわたりライブハウスを営んできた育音堂のオーナー・張海生さんは、公演後の会場でスタッフと共に片付けながら、静かに語りました。

出典:上観新聞